| 日赤病院での経験が原点 |
「いつか製薬会社を造り、自分の手で作ったものを、人に手渡したい。」
私の若い時からの夢の原点は、福岡日赤病院での2年間の奉職時代に目にした、病気で苦しむ人たちの姿でした。
「家族に病人が一人でもいると、家庭から笑顔が消えてしまう。」
心配や看病の辛さに加えて、落ち込んだ病人の前では笑うこともタブーになってしまう現実を目の当たりにしました。
声をひそめて話しをし、楽しむこともがまんしなければならない家族。健康のありがたさを知ると同時に、こうして困っている人たちを助けたい、と強く思いました。
いつか、自分で納得できる薬をこの手で作り、それを人のために役立てたい。
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| いつも人生の傍らに・・・ |
しかし、夢の実現はたやすいものではありませんでした。20代は家業の手伝いに明け暮れました。父や兄たちを手伝って製材の仕事に朝から晩まで汗だくになって働きました。
30才で独立し家内と二人で小さな製材所を始めました。材木相手の荒っぽい仕事は性に合っていたようで、仕事もうまく軌道にのっていきましたが、若い時の夢は捨てきれませんでした。
チップやノコくずにまみれている時も、事務所の一角に実験机を置き、いつでも使えるように試験管や乳鉢を並べていました。材木の伝票にも、学生時代の名残のドイツ語の文字を書いていました。日曜には家族で山登りをし、秋の日が暮れるまでセンプリ(薬草)を摘み、冬には、ねずみもちの実や葉や小枝をストーブで炊いて、胃薬を作りました。これは、親戚や友人にも好評で、作るはしから人に配っていました。
そうやって、何十年も時がすぎましたが、ある日突然、空から降ってくるように決定的な出会いがやってきました。
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| 平成元年、決定的な出会いが。 |
私がアガリクスという茸の話を生まれて初めて聞いた日のことは、今でもはっきりと覚えています。
ある日、仕事上の情報を持ってくる後輩が、福岡の企業動向を一通り話し終えて立ち去りかけた時、
「そういえば、ガンに効くブラジルのキノコの栽培を始めた知人がいて、えらく苦労しているみたいです。大変ですよ、農業の経験もない人だから。」
その言葉を聞いたとき、ピッと何かがひらめきました。
「ちょっと待った!その話を聞かせてくれ。」
間髪をいれず、私は後輩を引きとめていました。
後輩は、びっくりして座りなおし、持っていた資料を私に見せてくれました。それは、ペンシルバニア大学での研究データや、栽培者の身内の体験談でした。アメリカの大学での正式な研究データ。慣れ親しんだ研究文書の文字にに胸が躍りました。「これだ!」その場で決断しました。
「よし、おれは、そのキノコを栽培する!」
アガリクス茸も知らず、農業も全く知らず、ただ直感だけで、なんとも無茶な話ですが、こうして私のアガリクス茸との格闘が始まったのです。
一度始めたら最後までやり通す、後には引かない頑固さで、家族を巻き込んでいくことになりました。
就職していた次男は、当時はやっていた言葉で呼び戻しました。「バイオの仕事をやってくれ。」
遠方へ嫁いでいた長女へは、英語の文献を送って和訳させました。
これまでの財産をつぎ込んで、アガリクス茸の栽培場、培養場、分包室、研究室などを作り不退転の心構えで突き進んでいきました。
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| 失敗、失敗、そして失敗。 |
初めて取り組んだ「稲わら堆肥を使う農法」は堆肥つくりが命でした。小屋いっぱいのわらを、ごっしごっしと手作業で切っていきます。わらは2トン。それを手作業で20センチほどの長さにザックザック切っていくわけです。夏の暑い日など、1時間で2リットルの水を飲んでも足りないくらい、汗だくの重労働でした。
つぎに、それを高く積み上げ発酵させます。発酵の熱と強烈な臭いが充満する作業場で、滝のような汗を流しながら、堆肥をかき混ぜたり踏んだり、気の遠くなるような作業がえんえんと続きます。
さすがに次男一人では身がもたないということで、何度か手伝いの方を募集しましたが、農業経験者でさえ2日ともちませんでした。
「こんな原始的な作業、今時農家でもやらんよ。」と言って去った人もいました。
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| 平成5年、水野博士との出会い、そして栽培の成功! |
栽培の苦労は、堆肥作りにとどまりませんでした。苦労して堆肥ができても、アオカビにやられて、アガリクスの菌が全滅したことも1度や2度ではありません。
そんなことを何年か続けて、とうとう栽培も行き詰まってしまいました。
これは専門家の指導を仰ぐしかない。
私と息子の意見が一致しました。そして、悩んだ挙句、思い切ってアガリクス茸についての著書を出版された、静岡大学農学部名誉教授の水野卓博士に手紙を書くことを決意しました。
「アオカビの対策を教えていただけないでしょうか。」
こんな有名な学者さんが果たして自分たちの手紙を読んでくれるのだろうか、失礼だと怒り出すのではないか。まるくら先生たちが相当気をもんだにもかかわらず、意外にも博士はあっさり相談に乗って下さったのでした。
博士からは丁寧なお手紙が届きました。そこには、この貴重な茸の栽培を頑張ってくださいという博士からの応援の言葉までかかれていました。
水野先生のアドバイスのおかげで、何とか栽培の危機を脱することができました。そればかりではなく、日々持ち上がるこのキノコにまつわる疑問に答えてくださり、まるくら健康堂を学術面から大きくバックアップし続けてくださったのでした。
さらに、大変な重労働を伴い、しかもリスクが高い「稲わら堆肥による栽培」にかわって、より安全で効率的な、「袋栽培」の技術の指導を仰ぐことができました。
こうして、まるくら健康堂独自のアガリクス茸栽培に成功し、夢の実現に向けて一歩近づくことができたのです。
1通の手紙から、水野博士との交流が始まり、それは博士が亡くなった現在も、水野博士夫人との家族ぐるみのおつきあいとなって続いています。
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| すったもんだの末に、アガリクスエキス顆粒の誕生 |
「自分で作ったくすりを人のために役立てる」
くすりならぬ、アガリクス茸の栽培の成功により、私の念願が現実となりました。
アガリクスは最初、姿のままをそれぞれのご家庭で煎じて飲んでいただいておりました。しかし、煎じた液はクセが強く、飲みにくいんですね。また、病院に入院しているご家族の方に飲ませるのに手間がかかります。
営業にも出るようになっていた次男から、そういったお客様からの直の声が入るようになりました。
「携帯しやすくて、ぱっと飲めるようなものを作るべきだ。」と主張する次男と、
「粉になっていたんじゃ、アガリクスだか何だかわからんじゃないか!」
と考える私との間で、1ヶ月以上対立が続きました。
普段穏やかな息子が一歩も譲らないのを見て、とうとう私が折れることになりました。しかし、加工を認める代わりに、絶対の条件をつけたのです。
「煎じ液を粉末にするなら、どこにもない濃いものじゃないと認めん。」
こうして、混ぜ物をしない、一番濃いアガリクスのエキス顆粒「ピュアリクスG」が生まれたのです。
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| 誠実な製品づくりへの取り組み |
国産の安全な原料を使い、過剰な加工をしないでアガリクスの栄養をふんだんに摂取できる製品を作る。この姿勢は今も全く変わっておりません。
できるだけ、自然に近い形のものを。
毎日続けられるものを。
おとなから子どもまで、自ら健康維持できるものを。
私自身もどれだけアガリクスに助けられているかしれません。50代のころは、糖尿病、高血圧、高コレステロールと生活習慣病予備軍でした。アガリクスに携わってから、どれほど健康になったか。70を超えた今でも現役で仕事をこなせるのは、全くもってこの茸のおかげだと思っております。
それだからこそ、もっと多くの方にお伝えしなければならないという使命を感じ、日々頑張る力も湧いてくるのだと思います。 |